世界仰天ニュースで特集された脱獄王・白鳥由栄のすべて

あなたはここ日本にいくつもの刑務所から脱獄した人物がいることをご存知だろうか?

その人物の名は「白鳥由栄(しらとりよしえ)」

彼は1936年、強盗殺人の罪で青森刑務所に服役。しかし、看守の非人間的な厚かに憤慨する。同年6月、脱獄に成功するとその後も白鳥由栄は3回も刑務所に収監され、そのたびに不可能な脱獄に成功。

なかでも脱獄不可能といわれていた網走刑務所の脱獄成功は伝説化されているほどだ。

そこで今回は「世界仰天ニュース」でも特集された脱獄王・白鳥由栄についてまとめた。

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脱獄王・白鳥由栄のプロフィール

まずは脱獄王として語られる白鳥由栄のプロフィールから。

白鳥由栄


image: www.h3.dion.ne.jp/

白鳥由栄(しらとり よしえ、1907年7月31日 – 1979年2月24日)は、元受刑者。今日では収容先の刑務所で次々と脱獄事件を起こし「昭和の脱獄王」と呼ばれた異名で知られる。脱獄の際に看守に怪我をさせたり、人質を取ったりするような強行突破をしたことは一度もなく、当時の看守の間で「一世を風靡した男」と評された。26年間もの服役中に4回の脱獄を決行、累計逃亡年数は3年にも及んだ。

引用:Wikipedia

「世界仰天ニュース」でも特集された白鳥由栄の“脱獄歴”


image: matome.naver.jp/

 

白鳥由栄(しらとりよしえ)。

まるで女性の名のようだが、れっきとした明治の男だ。それも「日本の脱獄王」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて(1936年6月~1947年3月)網走刑務所を始め、青森、秋田、札幌の刑務所をパーフェクトに脱獄した人物。

 

白鳥由栄の“脱獄”はあくまで国家権力に対する挑戦であり、個人や集団がその英知のかぎりを尽して鉄壁の守りに挑む人間、ギリギリの闘争手段ということができるのではないか。

 

それはまた、リスクの大きい賭けでもあるのだが白鳥由栄にとって「脱獄」とは如何なる人生の目的であったのだろうか?

白鳥由栄を当時取材していた斎藤充功氏は、府中刑務所を出所した16年後の11月、山谷の簡易宿泊所で生活していた彼をやっと探し当てて、話を聞く機会を得た。1907年7月生まれの白鳥由栄は70歳になっていた。

第一印象は、どこにでもいる老人という感じであった。

 

だが、三白眼でじろっと晩まれて最初に出た言葉は「俺には今も、首に目に見えない鉄の鎖がしばりつけられているんだ」

 

斎藤氏によると今でもその言葉が忘れられないのだという。

確かに無期刑の仮釈放には満了日がない。
白鳥由栄はそれを言いたかったのであろう。

なお、以下が白鳥由栄の脱獄歴と手口だ。

1回【青森刑務所】1936年6月
(錠前外し)28歳
2回【秋田刑務所】1942年6丹
(天抜け)34歳
3回【網走刑務所】1944年8月
(枠外し)37歳
4回【札幌刑務所】1947年3月
(もぐら)39歳

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刑務所における非人間的な扱いに憤慨


image: matome.naver.jp/

 

白鳥由栄は青森刑務所には強盗殺人の罪で無期懲役を言い渡されて服役。秋田には戦時罪囚移送令に基づき処遇困難者として移送。脱獄後、徒歩で東京まで逃走して小菅刑務所の主任看守を訪ねて秋田の虐待を訴え、逃走罪で3年加算される。

網走刑務所でも看守の非人間的な扱いに憤慨して脱獄。
その後、2年間山中で生活。

戦後の46年6月に下山して札幌を目指して鉄道の線路を頼りに砂川町(当時)まで辿り着くが、空腹で野菜を盗む。警戒中の農夫に発見され乱闘になるも、誤ってマキリ(動物解体用の刃物)で農夫を刺殺してしまう。

裁判では殺人と加重逃走罪で「死刑の判決」であったが、裁判中に札幌刑務所を脱獄。曲中で1年余生活していたが48年1月に下山して、札幌郊外の琴似町でパトロール中の警察官に対して自首する。

裁判は継続され国選弁護人の活躍で殺人が「傷害致死」に裁定、そして判決は加重逃走罪が加算され、「懲役20年」を言い渡された。

白鳥由栄の脱獄はこれで終わり、48年7月に身柄はGHQの命令で東京の府中刑務所に移送される。背負った刑罰は「無期懲役、懲役20年、加重逃走3年」。本来なら、これだけの罪を背負って服役したわけだから仮釈放など考えられなかった。

しかし白鳥由栄は府中刑務所で13年6カ月服役して、1961年12月に仮出獄で出所した。

これまでに彼は4舎24房の独房に入れられ、手錠、足錠をかけられたまま、狭い独房を一歩も出されることなく1年4カ月拘禁されつづけた。

冬の獄衣は夏物の単衣が1枚。
夏は防寒衣のような厚手の刺し子を着せられていたという。

彼が人生のすべてを脱獄に賭けた理由


image: www.site1363.jp/

 

「網走の冬は俺も死ぬと思った。冬は想像を絶する寒さで、吐く息が両手を縛った革バンドの上ですぐ霜になって、フーッと吹くと白い粉になって舞い、髭なんかバリバリに凍ったもんだ。着物は単衣を着せられて、体はしびれて感覚なんかなかったな。なにしろ逃げるまで体の自由なんかなくて、イモ虫みたいに一房の中に転がされ、飯なんか口だけでアルマイトの食器をくわえて喰うありさまで、大以下の生活だった。ほんとに、網走のときは俺もダメだと思ったよ。また、夏は反対に刺し子みたいな厚い綿入れを着せられて、手錠や足錠はほとんど外してくれなかったから、岨が湧いてきて、生きている人間にも蛆が湧くことをあのときはじめて知ったね…。くそまみれで、その上、蛆まみれの生活だったんだ。その姐が、ぞろぞろ床板の隙間に入って、いつのまにかハエに孵って、明かり窓の金網に黒くなるほどべったりとくつついてね、ほんとうに生地獄の囚人だったんだ」

 

これは斎藤氏が白鳥由栄に直接インタビューし、彼が語った内容である。
では、脱獄はどのように決行したのか。

 

「逃げるときは夏を選んで、その日が来るのが気の遠くなるほど長く感じられた。冬逃げれば、寒さと飢えで死ぬことは分っていたから、夏を選んだんだ。逃げたのは暗くなってからで、舎房は灯火管制で薄暗かった。それでも逃げる日は親切にしてくれた看守が休みの日を狙ってね、その看守さんに迷惑をかけちゃあ気の毒だと思ったからだよ」

 

では、脱獄するときの覚悟はどうであったのか。

 

「俺は看守にいってやったな。絶対にここを逃げてみせると……。俺は1人、あんたらは大勢だ。塀の内側で捕まれば俺の負け。外に出れば、たとえ死んだとしても俺の勝ちだとね。1年以上運動させてもらえなかった。耐えられたのは『なにがなんでも逃走してやる』という、その気持が俺の心の支えだった。だから、人間、その覚悟さえつけば、どんな仕打ちにも耐えていくことが出来るんだ」

 

当時の白鳥由栄の生きがいは、脱獄がすべてであった。
それは看守に対する復讐。

そして、自己に課した試練でもあったわけだ。

 

網走刑務所の脱獄でも、白鳥由栄は脱獄の美学を見事に実践してみせてくれたことになる。生涯に死刑、無期懲役の封決を受けながら、4回にわたる脱獄を敢行した自鳥由栄は昭和犯罪史に特筆される存在だ。

 

1935年に逮捕され、61年に仮出獄するまで、娑婆に出たのは脱獄による3年余という例は日本では無論のこと、世界の脱獄史上にもその例は見ない。

心筋梗塞で亡くなったのは71年2月24日、三井記念病院であった。

享年71。
亡骸は白鳥由栄に子供のころ世話になったと名乗り出てくれた女性の世話で、富士山を望む墓所に丁寧に埋葬された。

 

合掌。


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