あなたは幻の聖地“シャンバラ”をご存知だろうか。
シャンバラはチベットにおける伝説上の仏教王国であるが、その正確な位置は謎とされており、わかっていることは中央アジアのどこかなんだとか。
実はそのシャンバラにもっとも近づいたとされる画家がいる。
それがニコライ・レーリヒだ。
今回は幻の聖地“シャンバラ”にもっとも近づいた画家 ニコライ・レーリヒについて迫ることとした。
“シャンバラ”に憧れたニコライ・レーリヒ
image:kenken-indiafreetime.blogspot.jp
ニコライ・レーリヒは現:レニングラード(前:首都ペテルスブルグ)の裕福な家庭に生まれた。
彼はその他人間と違っていたことは、小さな頃からモンゴルやチベットの伝説を教えられていたこと。これがきっかけで、中央アジアには“幻の聖地シャンバラ”があると確信し、探求することに憧れを抱くことになる。
そして1925年、レーリヒは妻エレナと長男ユーリを連れてシャンバラを探す旅に出た。
その探索中に描かれた絵画「チンタマニ」はあまりにも有名で、内容はヒマラヤの谷を進むキャラバンのなかに光輝く小箱をのせた1頭の子馬があって、運搬人が監視の目を光らせている、というもの。
絵画「チンタマニ」
後にレーリヒはこの絵画について、小箱には「石」が収められていると補足。その石こそ「オオイヌ座のシリウスからもたらされたシャンバラのチンタマニ」だという。
本当に画家・レーリヒはシャンバラに近づけたのか
画家・レーリヒは自身の絵画「チンタマニ」でシャンバラについて描いているが、はたして本当にシャンバラに近づくことができたのだろうか。
画家であれば想像でいくらでもシャンバラを描けることと思うが、レーリヒは実際にシャンバラに近づいた画家と言われている。
その理由は簡単だ。
シャンバラは王を長とする“ハラーキー”なる導師のグループが支配し、彼らなくしてシャンバラに入ることは叶わない。つまり、チンタマニを知る画家・レーリヒとエレナはシャンバラに入ったか、ハラーキーと接触したことが考えられるのだ。
1982年、彼は妻と子供と共にインドへ戻った。
その後はヒマラヤのクルー渓谷に居住し、「ウルスワティ研究所」を設立したほか、日本を含む全世界を歴訪して、すべての文化財が戦争によって灰にならぬよう「レーリヒ条約」を発表。
そう、レーリヒは歴史上、平和運動に多大な貢献をした人物とも言えるのだ。
この平和に貢献したという部分が影響して、彼は「もっともシャンバラに近づいたと画家」だと伝えられている。
シャンバラにもっと近づいた男
1947年、レーリヒは74歳でこの世を去った。
彼はシャンバラの寂聴をこの世に暮らしている人々に伝えるべく、思索をはじめ、著述、絵画制作などに没頭した。
つまり、レーリヒは単なる画家ではないのである。
先ほど、平和に貢献した部分が影響してシャンバラに近づいた画家と記したが、それ以外にも絵画のモチーフにシャンバラを扱ったものが多いことも影響して、「シャンバラにもっとも近づいた画家」と言われるようになったのかもしれない。
なお、彼が描いた絵画「チンタマニ」にシャンバラの秘密が隠されているというが、それは未だに解明できていない。
ニコライ・レーリヒ
image: http://blog.goo.ne.jp
ニコライ・コンスタンチノヴィチ・リョーリフ(Николай Константинович Рёрих, 1874年10月9日 – 1947年12月13日)は、ドイツ系ロシア人の画家。美術界と法曹界で訓練を積んでおり、文学や哲学、考古学に関心を寄せた知識人でもあった。一般的には、ストラヴィンスキーの《春の祭典》の着想・構想・舞台デザインに関わった美術家として名高く、しばしば音楽史においてドイツ語名のニコライ・レーリヒ(N. Roerich)で言及されている。サンクトペテルブルクで裕福な公証人の家庭に生まれ、世界各地で流浪の生涯を送った後、インドのパンジャブで最期を迎えたコスモポリタンである。渡米後は英語風にニコラス(Nicholas)と名乗った。イェレナ夫人ともども神智学の導師として活動し、共同でアグニ・ヨーガ協会を設立した。息子のユーリ・リョーリフはジョージ・ディ・レリックの英語名でチベット学の研究者となり、息子のスヴャトスラフは画家・建築家となった。
引用:Wikipedia
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